ラム島の思い出

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旅行中で印象に残っているのは、私目の場合は結局は食べ物で
しょうか?

ケニアのラム島はそれこそ車1台、ロバが数頭、牛や豚もめったに
見た事がない位のイスラム圏でした。

島の中央部には洒落たホテルもありましたが、その近くに焼き鳥屋
ならぬ牛や山羊の肉の串焼きを売っている小さなお店がありました。

1週間に1度肉を本土から入荷して、焼いて売っていました。売り切れ
たらそれはもうそれでお終いです。次の入荷までお肉はお預けです。
肉食嗜好の私目は非常に辛かったです、はい。というのもお店に
まだメニューとして残っていたとしても、それこそ20本位食べても
全然足りない位のいつも小さな肉片でしたから・・・。

又そのお店の先には洒落たリゾート・ホテルがありました。その時代
唯一のセレブ・ホテルでしたが、脇にヌーディスト・ビーチがあって、
ホテルから出て来た女性が1枚1枚順番に衣服を脱ぎ捨てながら、海
に入って行ったのが凄く印象的でした。

午後2時頃は、それでなくても人影の少ない海岸には誰も人がいなく
なります。勿論暑いからも理由の一つですが、クラゲが大量に発生
して、一気に噛まれます。チビなのに凄く痛いんです・・・。

ラム島への道のり

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ケニアの島の話の続きで、ケニアの港町、モンバサからラム島への
陸路での道程について一言記しておきます。

11月だったか最初の試みは、あっけなく雨季に阻まれて道路寸断と
云う事で中断され、モンバサで暫し時間を費やし、次にtryしたのは
その年の12月末でした。まだ途中の道はローカル・バスが人や荷物
を満載していては進めないので、乗員は皆降ろされて、腰まで浸かる
泥道を暫く歩かされました。

今思えば住血吸虫やら得体の知れない虫にやられなくて無事だった
のが不思議な位でした。

記憶が正しければ、モンバサからマリンディ更に、バスを乗り変えて、
キリフィ、そこから船で対岸に渡り、ワタムからヒンディそして再度
フェリーでラム島へ渡りました。

アラブ文化は島のあちこちの道筋に残っていますが、ザンジバル島
のような重厚感や圧迫感はなく、余り印象に残っていませんが、のん
びりした島でした。

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ケニアの島の話の続きで、ケニアの港町、モンバサからラム島への
陸路での道程について一言記しておきます。

11月だったか最初の試みは、あっけなく雨季に阻まれて道路寸断と
云う事で中断され、モンバサで暫し時間を費やし、次にtryしたのは
その年の12月末でした。まだ途中の道はローカル・バスが人や荷物
を満載していては進めないので、乗員は皆降ろされて、腰まで浸かる
泥道を暫く歩かされました。

今思えば住血吸虫やら得体の知れない虫にやられなくて無事だった
のが不思議な位でした。

記憶が正しければ、モンバサからマリンディ更に、バスを乗り変えて、
キリフィ、そこから船で対岸に渡り、ワタムからヒンディそして再度
フェリーでラム島へ渡りました。

アラブ文化は島のあちこちの道筋に残っていますが、ザンジバル島
のような重厚感や圧迫感はなく、余り印象に残っていませんが、のん
びりした島でした。

突然ですが、ケニアのパテ島

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島と言えば、ケニアではラム島が有名ですが、その更に北の先に
あるパテ島があります。ちょっと唐突に思い出した島の体験をお話
し致します。

何故思い立ったかといいますと、ラムよりももっと鄙びた島を体験
したかったからです。

そこで料金交渉でラム島から船を貸し切って渡島しました。しかし、
午前中に出航したのに、お昼も食べれず、パテ島の海岸に到着した
のは日が暮れかけた夕方5時過ぎでした。

海岸に降り立ったら、真っ黒に蚊がたかって来ました。片足を掻いて
いる内にもう片方が真っ黒状態でした。痒いのなんのって、一頻り
掻きむしって足を海に漬け、そのヒリヒリ感が心地良かったです。

泊まれる宿もなく、しょうがないので村長さんの家の屋根に泊まる
許可を貰い、暫し家族談笑の後、質素なお夕食を図々しくご馳走に
なりました。

お手洗いを借りましたが、手を洗う場所も何もかも真っ暗でした。

屋根の上でもまだ蚊が一杯いました。寝袋を敷き、角四隅に蚊取り
線香を焚き、暑いですが我慢して頭からシーツを被って寝ました。

翌朝、借りた枕が焦げてました。火事にならなくて良かったです。
そしてお手洗いへ行くと昨日手を洗った水置きの石甕にはゴキブリ
が一杯浮いていました。

流石の私目もこれにはぞっとしましたが、もう後の祭り、しかし
病気一つせず、現在に至っていますが・・・。

どうやってラム島に戻って来たのか記憶がないのですが、あの船頭
さんは全くひどかったです。自分達はお昼には色鮮やかな大きな
熱帯魚を釣って蒸し焼きにして食べてましたから・・・。しかも
食べる?と聞いてもくれずに・・・! 食べ物の恨みは・・・です。

ケニアのスワヒリ語はかなり文法の欠落したケニアン・スワヒリ
ですが、ラム島やパテ島は流石、本家のアラビア語の変化したスワ
ヒリ語だったと記憶してます。

突然ですが、ケニアのパテ島

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島と言えば、ケニアではラム島が有名ですが、その更に北の先に
あるパテ島があります。ちょっと唐突に思い出した島の体験をお話
し致します。

何故思い立ったかといいますと、ラムよりももっと鄙びた島を体験
したかったからです。

そこで料金交渉でラム島から船を貸し切って渡島しました。しかし、
午前中に出航したのに、お昼も食べれず、パテ島の海岸に到着した
のは日が暮れかけた夕方5時過ぎでした。

海岸に降り立ったら、真っ黒に蚊がたかって来ました。片足を掻いて
いる内にもう片方が真っ黒状態でした。痒いのなんのって、一頻り
掻きむしって足を海に漬け、そのヒリヒリ感が心地良かったです。

泊まれる宿もなく、しょうがないので村長さんの家の屋根に泊まる
許可を貰い、暫し家族談笑の後、質素なお夕食を図々しくご馳走に
なりました。

お手洗いを借りましたが、手を洗う場所も何もかも真っ暗でした。

屋根の上でもまだ蚊が一杯いました。寝袋を敷き、角四隅に蚊取り
線香を焚き、暑いですが我慢して頭からシーツを被って寝ました。

翌朝、借りた枕が焦げてました。火事にならなくて良かったです。
そしてお手洗いへ行くと昨日手を洗った水置きの石甕にはゴキブリ
が一杯浮いていました。

流石の私目もこれにはぞっとしましたが、もう後の祭り、しかし
病気一つせず、現在に至っていますが・・・。

どうやってラム島に戻って来たのか記憶がないのですが、あの船頭
さんは全くひどかったです。自分達はお昼には色鮮やかな大きな
熱帯魚を釣って蒸し焼きにして食べてましたから・・・。しかも
食べる?と聞いてもくれずに・・・! 食べ物の恨みは・・・です。

ケニアのスワヒリ語はかなり文法の欠落したケニアン・スワヒリ
ですが、ラム島やパテ島は流石、本家のアラビア語の変化したスワ
ヒリ語だったと記憶してます。

奴隷集積所

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ダル・エス・サラームから北へ約75km、バガモヨと云う町があります。

個人的な事ですが、以前、西江雅之先生のスワヒリ語の授業でその
地名の意味が、”我心を此処に残す”と説明され、非常にショックを受け、
絶対一度行くべきと考えていました。

奴隷として突然故郷から無理やり連れ出され、今後取引される物品
として船積みされる前に、一旦集積された最後の土地で残した彼等の
心の叫びが地名になったのでしょう。悲しいです。

勿論この地には出向きましたが、全然この町を散策していません。
というのも後日談があり、この海岸地方の一安宿でサソリに足を喰われ、
1週間程寝込みました。ひどい体験でした。このため、キリマンジャロ山
登山も断念した経緯がありました。

ファルエスサラームからはローカル・バスがバガモヨまで行っています。
黒いブイブイを着たイスラムの女性達はその頃、石鹸を付ける事が流行って
いて、身体に付けた石鹸を水で流さずに、そのままその残り香を楽しんで
いたのでしょうか?バスの中は石鹸の匂いで充満していました。一見清潔
そうな匂いですが、やっぱり長時間嗅がされると気分が・・・。

もっとも、外人に対して、女性や子供お年寄りに対しては、非常に
親切で皆素朴で優しかったです。

写真はいずれもザンジバル島での風景。

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個人的な事ですが、以前、西江雅之先生のスワヒリ語の授業でその
地名の意味が、”我心を此処に残す”と説明され、非常にショックを受け、
絶対一度行くべきと考えていました。

奴隷として突然故郷から無理やり連れ出され、今後取引される物品
として船積みされる前に、一旦集積された最後の土地で残した彼等の
心の叫びが地名になったのでしょう。悲しいです。

勿論この地には出向きましたが、全然この町を散策していません。
というのも後日談があり、この海岸地方の一安宿でサソリに足を喰われ、
1週間程寝込みました。ひどい体験でした。このため、キリマンジャロ山
登山も断念した経緯がありました。

ファルエスサラームからはローカル・バスがバガモヨまで行っています。
黒いブイブイを着たイスラムの女性達はその頃、石鹸を付ける事が流行って
いて、身体に付けた石鹸を水で流さずに、そのままその残り香を楽しんで
いたのでしょうか?バスの中は石鹸の匂いで充満していました。一見清潔
そうな匂いですが、やっぱり長時間嗅がされると気分が・・・。

もっとも、外人に対して、女性や子供お年寄りに対しては、非常に
親切で皆素朴で優しかったです。

写真はいずれもザンジバル島での風景。

ザンジバル島

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ザンジバル島はアラブ文化が色濃く残り、タンザニア連合共和国の本体、
タンガニーカと合併したもう一方の歴史ある国(諸島)です。
(サンジバル島には他にペンバ島等も含まれます。)

ザンジバル島の中央部ストーン・タウンは、世界遺産にも指定され、かって
のアラブ風の家屋を改築して、近代的に改修した洒落たお店やホテルが
建ち並んでいます。

年末年始、特にクリスマス以降の滞在客は白人が多く、圧倒的にイタリア人
が多いです。もっともイタリア本国からチャーター機で直接ザンジバルに
乗り付けて来るので、人数が多いのは否めません。

日中はそれでなくてもかなり蒸し暑く、ブラブラ街中を散策した後はどうしても
カフェとかで一休みしたくなります。勿論クーラーが効いていなくても、ガー
デン式で美しい真っ赤な夕陽を見るための場所は満杯です。

海岸線に沿って幾つかの有名所では、東部アフリカでは珍しい、アイス・
コーヒーやアイス・ティーそしてアイス・クリームが早くからありました。

夕陽は綺麗で歴史やアラブ文化も面白いのですが、観光客用の物価は高く、
伊勢海老等もこの島より港町のダル・エス・サラームで食す方が、余程大きく
美味しく安かったリします。

街中の散策でちょっと辛くなるのは、奴隷貿易の際に使用した奴隷集積所跡
とかそのモニュメントです。